PERSPECTIVE目次
*暫定の目次、以後変更あり。


○ご意見はnishi*r-kohbo.comにお寄せください。
  (アドレスは*を@に変えて下さい)

第29章 バロックとは
  西洋と日本のバロック
第30章 バロックの兆し
  カラバッヴァジオ(1571-1610)
第31章 ローマ・バロック
  サンピトロ大聖堂
第32章 バロックの建築の姿
  ベルニーニ(1598-1680)
第33章 バロックの宮殿
  ベルサイユ宮殿、ヴュツブルグ
第34章 イギリスのバロック建築
  ブレナム宮殿、セント・ポール大聖堂
第35章 バロックの絵画
  エル・グレコ、ルーベンス(-1640)
第36章 17世紀風景画の成立(1)
  クロード・ロラン(1600-82)
第37章 17世紀風景画の成立(2)
  フェルメール(1632-75) 
第38章 ロココ室内装飾と絵画      38章にJUMP
  プチ・トレアノン、
  フラゴナール(1732-1806)
終章

第1章
第2章
第3章
第4章
第5章
第6章
第7章
第8章
第9章
第10章
第11章
第12章
第13章
第14章
第15章
第16章
第17章
第18章

第19章
第20章
第21章
第22章
第23章
第24章
第25章

第26章
第27章
第28章

第29章
第30章
第31章
第32章
第33章
第34章
第35章
第36章
第37章



第0章 見えるものとは
私は最近趣味で風景、街並みなどを水彩で描いている。やっと1年かな、若い時から絵画、歴史、建築、
風景などに興味を持ち、旅をして見て回っていた。私にとって若い時の旅はそれほど感動を呼ばなかった
が、それでも良く旅をした。
ほぼ30余年前、コンピュータで絵が描けることを知った。当時の描画能力では、今のパソコンCGレベルの
ものを作るのに、数億円のシステムが必要であった。それが急激に数千万円レベルまで下がった時に、
3DCGの世界にのめり込んで行き、それを生業としました。新しい業界は新鮮で、ダイナミックで忍耐と感
動のまま建築CGを作り続けました。それこそ巷では、実物と見間違えるほどのリアルなCGにお目にかか
るのも、今では珍しく有りません。マニュアルどおりに入力すれば、自然と眼に見えるようなパースの効い
た絵が出来てきます。それに3DCGの操作はそれほど難しいものではありません。楽なものです。出来た
ものを見て正しいと信じ、美しいと感動すれば、後は何もしないで眺めていれば満足な絵が描けるでしょう
。これで不満がなければ以後、平和に過ごせます。
・ ・・・・いったいこれで良いのだろうか?
疑問を感じたら模索を開始してみよう。まずは原点に返って・・・・・。
ここで芸術の香に仄かにでも近づければあなたは幸運です。
こんな事を自問自答しながら、見えるものの探求に旅たちたいと思います。

 B

A:1982年頃の初期のパソコンCG。当時は1280×1024ドット中256色、しか発色せず、グラデーションや
微妙な色調は色を混在させ(デイザ法)、印象派の点描法をまねして1ドットづつコントロールしました。仕
上げは2DのCGソフトを使います。A3のフォトプリンタは高くて買えない時代です。
B:1998年高価なワークステーションから開放されて、パソコンでもレイトレーシングの写真画質やアニメー
ションが可能になった例。この辺からCGパースが一挙に普及して、CGや3Dという言葉も一般に聴かれる
ようになった。


第1章 遠近法(パース)について
正式にはPERSPECTIVA(伊)、PERSPECTIVE(英)、日本語に訳してパースと言っている。パースと言うと
、完成予想図や遠近法、ちょっと物知りの人で幾何学に基づいた透視図法と訳している。話の手始めに、
PERSPECTIVEを手元の英和辞典(グランドコンサイス英和辞典:三省堂版)で引いてみた。1.遠近[透視
]画法;透視画;遠景[の見通し];遠近[距離]感,釣り合い.2.正しい見方、観点;将来の見通し、展望.と あ
る。この絵画の手法は、イタリアのルネサンス運動の中で生まれました。レオナルド・ダ・ビンチの手記か
ら(岩波文庫/杉浦明平訳/p.224〜226より)引用して、私なりに解釈してまとめてみると。遠近法の原則
は、平行な光線は、ある距離に到達すると1点に交わって消滅し、角錐状態で眼に映る(線遠近法)。遠近
法の性質は三つあって、@眼から遠ざかる物は小さくなっていく(宿小遠近法)。A眼から遠ざると、彩度
が落ち色彩が変化する(色彩遠近法)。B遠ざかるほど物体の輪郭がボケて見えいずれは見えなくなる(
消失遠近法)。最後に空気近法について、手前の建物より奥の建物はその間の大気の量を考慮して描き
、山脈のようにより遠い物はそれに比例して青味を濃くし描かねばならない。杉浦先生の注釈には、@は
15世紀のルネサンス人が発見していた。Aは建築家アルベルティが言及しており、Bについてはレオナ
ルドのオリジナルな観察の成果、だと述べている。これはレオナルド以前から多くの人が遠近法に携わり
、模索・研究してきた事を物語っている。風景に奥行きを与え立体感を平面に描き写す技術は、昔からの
願望でした。
今でこそこれらの事は、絵を描く上では常識になっている。この常識になるまでの人々の願いとは何だっ
たのだろうか。見えるものを見てしまった歴史には、苦悩と、かなり長いロマンを秘めた物語が覘けそうだ
。また、これに安住をせずに常識を覆す冒険も試みるのも楽しみとなる。




第2章 最初に形を残す
パースを意識しない絵には、なんだかほのかな温かみを感じる事がある。
・・・・・・・・・・・・・・・。
芸術とか美術とか最初に形を残したのはどこから生まれたのだろう?
誰でもが知っているように、幼児は、最初は物を掴みやたら口に入れる。次に物を投げる。手が痛くなると
棒など偶然手にしたもので物をたたく、相手が平らな面であれば、こすり付けて何か描こうとする。泥遊び
では指で線を描くか自分の手形を残す。それこそ衝動的に夢中になって熱中する様をよく見かけるだろう
。何か見て描きたいという気持ちより,行為の心地よさに酔っているのだろう。
これと同じような動機だろうと思われる手形の跡が、先史時代の洞窟に多く残されている。手形は輪郭線
や輪郭に沿って縁取られ着色されているものや、手形自体が白などの色を塗って周囲から際立たせてい
るものもある。自分の痕跡をこの大地に残して置きたいとの衝動で、周囲を支配する印、ある意味のマー
キングなのだろう。自分の足跡や偶然つけた木の幹の傷もこのマーキングに当る。最初は偶然につけた
傷に見えても、2度目には自分が付けたものと認識する。食料としていた動物の骨から作った道具や、刻
まれた模様は自分好みに意図的に改良しだしたのも、最初はそんな発想なのだろう。それを無意識に眺
めている楽しみと、この次にはここを変えたいという欲求も芽生えて来た。美術(芸術?)の制作と鑑賞す
る喜びの誕生だ。

 B

A:2歳児、クレヨンを持って嬉しそうに線を引いている。線も真直ぐに引けるようになった。
B:4歳児の描いたものもの。パパかママの顔を意識しだしたようだ。外の世界に初めて関心を持つ。これ
の詳しい観察は専門家に任せよう。


第3章 遠近法以前
遠近法を使った主観的絵画(描く人の視線で観た)は、レオナルドで始まって、セザンヌで終わった、 と 
極言する人もいるが、これは遠近法の視点は単視点(単眼視点)でかつ固定して見る事も指している。現
代の私達は、鏡に映る周囲の風景は、実際の立体を平面に写し取っているものだと経験的に普通に認識
していて、同じように立体を平面に描き写す技術も、常識として身につけている。だが、この常識は本当に
正しいのだろうか。おのずと遠近法を使った絵画は客観的に正しい芸術だと決め付けてしまいがちだが、
過去のさまざまな文明は、多種多様の豊な感性を含み、遠近法を知らないのは後れた文明・未熟な芸術
だと思い込むのは誤りである。どうやら古代人にとって実在のものと、絵との間に区別がなかったようだ。
むしろ絵を本物にしたかったのだろう。下の絵は約15,000年前の旧石器時代、フランス南部のラスコー洞
窟の壁画である。

 B

Aの大きな牛を注目してください。見難いですが、牛の後部は小さめに、前足や後ろ足などが遠近法で描か
れているのがわかる。前から見て横から描いたのだろう。Bの絵の牛の角はもっと明確に前後関係を描き
分けている。この洞窟壁画のすごい所は、岩の壁面の凹凸を利用して描いていること。顔や胸は凸部に、
足や胴のくびれは凹部に描分けて立体感を出している。A図の下の動物の群れの図は、壁の岩肌の横の
切れ目を大地に見立てて、移動しているように描いている。洞窟の内部は多くの炎に照らされてもまだ薄
暗く、陰影は深く映り込み、炎は風に煽られて影が揺らいでいる。動物も動いて見え、迫ってくるような錯覚
が生まれ、足音まで聞こえてくるような、現在の3D映画に匹敵するアニメーション効果があったのではない
かと思えてならない。これらの壁画は洞窟の入口ではなく、奥の真っ暗な所に描かれている。彼らにとって
装飾というよりは、生き延びるためにも狩の成功を祈って、“新鮮で元気な獲物が欲しかった”のであろう。
その時、飢餓の不安を払拭するように天に祈ったのか、安心願望の強さが絵の迫力に表れている。
私達が古代遺跡に憧れ、古い絵画を訪ねるのは現在の不安から来るものなのだろうか。少なくとも飢餓の
不安からは逃れていると言うのに・・・。


第4章 遠近術を見る
平面に絵を描くに当って、遠近感を表すすべ(術)はきわめて重要な要素だ。遠近法の規則をまだ知らな
い時代においては、さまざまな工夫を凝らして描いていった。空間を組織化する事。数千年かけてもたどり
着けない、いかに大変で困難であった事を、もう私達は忘れてしまったようだ。遠近法以前の空間表現を
、あえて遠近術と言っておこう。こういった絵画の場合、描手は自分の眼の網膜に映る周りの風景を、視
覚的に捉えてから、知覚的に構成して、関心の強い物を大きく強調し配置する傾向がある。(昔も今も視
覚と知覚の関係は変わらない-後で眼と人間の脳との関係は述べる)
時代がさかのぼって古代インダス文明に入ると、農耕社会が整備され、組織化され都市も誕生して、富の
集中がなされる。絵の目的も個人?の歓びから社会生活・富の誇示を説明することに移ってきた。農業生
産を順調に進めるためには正確な暦(季節の変化、日の出、日没の時刻など)が必要であり、天文学が発
達し、農地を耕し管理するために測量法、数学、幾何学が生まれた。ここに実用性を重視した古代遠近術
も生まれた。まだ数学的な遠近法の裏づけは無いが、見た印象を類型化して説明をするように平面に並
べている。

 B

A:メソポタミアの壁画でブドウの収穫からワイン作りまでを描いている。
B:前2000年頃、大きな石造を橇で運搬する図。丁度、監督官が石造の上に立って指揮している。平面と
立面を合わせて奥行きを表現した図のようだ。
遠近術に見られる特徴は@上下法:遠くのものが上にあり、近くのものが下にある表現法。A重ね法:奥
のものが近くのものに隠れて見える表現法。B縮小法:遠くのものが小さく近いものが大きく見える表現法
。ここで言う、近い遠いいという言葉は単に数字的な距離を指すのではなくて、大事なものは大きく描き、
そうでないものは遠くに周囲に配置している。


第5章 古代の遠近術
まだ図と絵が分離していない時代になるのだろう。もっともエジプトは絵から変化した象形文字を使ってい
るので、区別する必要を感じなかったし、文字も絵の一部と考えていた。輪郭ははっきりと図的に描くのだ
が、動物や人間の動作などに感情が表されていて(A図)、実際の観察を重視した印象も受ける。

 B

 B:古代エジプトで死者とともに埋葬されたパピルスに描かれた、“死者の書”(前1200年頃)の抜粋である
。人物のプロポーションは厳密に決まっていて、顔は横顔を描き正面を向いている。両肩は正面から、足は
斜め横から見たように描き、三次元の立体を表している。面白いのは、人間、動物など動いているものは奥
の足まで描いているのに対して、神、石造胃などは静止しているように真横から描いている。 一般にいう遠
近法の1視点固定に対して、移動視点(多視点?)と言う。

 B

 アッシリアのレリーフ(前650年頃)のトレースしたもの。アッシリアの兵士がエラムの街を略奪した図。注目
したいのは、城門から坂を下って帰還する兵士の隊列が、弧を描いて右に去っていく。道路が右に広がって
いく様子など、遠景と近景との関連づけと奥行き感を出そうとした意図が見られる。


第6章 風景と遠近法
 紀元前のギリシャ時代では、遠いほど物は小さく見えるなどの、線遠近法(まだ平行透視の状態)の原
理は物の観察から知っていた。映像が逆さまに映る、ピンホールカメラの原理も幾何学を通して解明して
いた。実例が紹介できないが、遠近法は円形劇場などの舞台の背景に奥行きをつけるためにも応用して
いた。


 上図は、ギリシャ時代の線遠近法の概念を想定したものです。前述のように平行な線は1点に交わるとい
う消失点(V.P)は解っていたのだが、奥行きを測る距離点(測点M.Pとも言う)の根拠が見つけられなかった
。図上の、1.の線は出来るが2番目の水平の距離線3が引けない、言い方を変えれば、正方形の対角線2
の消点(M.P)の位置を求めるのに苦労していたようだ。

 B

 ポンペイはご存知のように、79年のベスビオ火山の噴火によって、街全体が火山灰に埋もれた古代ローマ
の遺跡です。当時の生活を知る上で貴重な物がたくさん残されています。古代ローマの絵画は自由で多彩に
わたり、人物画、静物画、風景画など後世禁止されたテーマも含み大変面白い。フレスコの壁面に部屋を広く
見せるために、大理石やタイルなどの柱や窓を描き(トロンプソイユ的)、錯覚を利用して実際にあるように豪
華に見せている。
A:台は平行透視のように描かれているが、デッサンは確かなもので、良く観察してしっかり描いている。陰影
を付けて絵に立体感、奥行きを描こうとした努力が見られる。
B:幻想的な女性の花摘みの姿図。色合いといい、今見ても何の遜色も無い。


第7章 視覚と知覚
 人間が生きていくに必要な情報は、主に視力に頼っている。視覚は聴覚の数万倍の情報を一時に取り
入れることが出来る。視覚と知覚の関係についてカメラとフィルムの場合に置き換えて説明することが多
々ありますが、フィルムに映った映像がそのままダイレクトに知覚されていると、思い込みやすいのですが
これは大きな間違いです。視覚情報は眼の水晶体を通して網膜に投影される。ここまでは間違いないが、
網膜で受けた視覚情報は脳の中枢に送られる。情報は光で反応するものと、色で反応するものと別々に
捉えられて、別々に視神経を通り別な脳細胞に送られる(A図)。これらの情報を瞬時に再構成していく過
程で、触覚、聴覚、臭覚などの知覚と統合される。だから同じものを見ても誰でもが同じには見え(映ら)な
いらしい。とは言え私は医学の研究などしたことが無いので責任はもてない。

 B

B:広角4.25mmのデジカメ(35oカメラでは焦点距離24mm)で、レンズをやや上向きに撮影したものです。普
通の街中の風景ですが、本当にこのままの風景が脳に映っているのでしたら、私達は怖くて斜めに傾いたビル
の下は通れません。脳はこれを体験から垂直に建っているように修正して知覚します。これが出来るのも、眼
に映る視覚映像全体の、視野角2度の範囲でしかピントが合っていないからです。静止した両眼の視野角は
約60度とされていますから、ほんの一部だけがハッキリと映り、あとはボケた映像です。ですから今見ている視
覚情報は、眼を動かしたり首を回したりして必死に集めて、脳内部で抽象化されて分解再構成されたものが、
知覚されて私達の脳に記憶されます。極端に言えば、自分達は眼で名画を見ているのではなく、脳の内部の
風景を見ていると言える。寝ている時に見る夢が、カラーで動画である理由もここから来ているのだろうか。人
は面白い事に、自分の望むものしか見ない。これは○だと思い込むと□も○に見えてしまう傾向も持っている
ことを付記しておこう。“人は自分の望むものしか見ない”カエサルの言葉である。


第8章 トロンプソイユか
今回は前の第6章で触れたトロンプソイユについて説明しておこう。別名“騙し絵”とも言うが、そこに無い
ものがさも有るように描く技法を指す。正確ではないが、3DCGでいうマッピングや最近見かけるバスなど
のラッピング、映画看板なども同じ範疇だろう。昔の銭湯には必ず湯船の奥に大きな風景(主に富士山)
が描かれており、大いに心を癒してくれた。ポンペイの住宅(別荘など)の壁面に大理石などを模した絵が
描かれていたことは前に述べた。室内を豪華に見せるためのイオニア式の柱や、窓が描かれ外の風景も
添えられている。実用的な理念を持つローマ人からしてみれば、狭くて壁の多い空間を開放して、“快適
に暮らしたい”だけなのだろう。柱頭飾りや石材、タイルなどリアルに表現されていて、陰影を付けて立体
感もあり面白い空間になっている。

 B

A:壁面に窓から外を眺めた風景が描かれている。空想的な田園風景の図で、遠くには岩山を描き、森林、牧
草、牛の群れと別荘と思われる建物が描かれている。遠景の岩山などぼかして空気遠近法的な手法もみえる
が、この絵の状態では空間構成が未熟で騙し絵とまで行かないが、部屋の空間を広く見せる役割は果たして
いる。後に歴史的に重要なテーマ(風景画の誕生)がここで示されることになる。
B:城壁と城門を描いたものか。平行透視の立面図としては丁寧に美しく描かれている。お互いの建物に関連
性(統一性)が薄く、奥行きの面や光線・陰影が不正確である。いずれも消点が合わないところから、線遠近
法はギリシャから正確に伝わっていなかったようだ。観察を重視して図的な面白さを整理して、陰影を付け立
体感、奥行きを出している。それでも建築を絵のテーマとして取り上げているのは特記(後世から見れば)に値
する。なんだか不思議な事を書いたが、6章のポンペイの壁画に見られる、人物、静物画など豊な人間生活を
飾る絵画が無くなっていく世界に、これからなっていく事に注目してください。


第9章 キリスト教美術の誕生
テオドシウス1世によって380年キリスト教はローマ帝国の国教とされ、以降十数世紀の間、美術・芸術も
キリスト教優遇政策に従わされた。禁教時代から続いていた、貴族の邸宅の一部を改造した礼拝堂が広
まり、さまざまな様式の小寺院が建設された。特に教会建築の発展は目覚しく、ローマの公共建築を模し
たバジリカ式寺院が建てられ内部も盛んに装飾された。特にモザイク画は、東方文化の影響もあり、材質
の持つ耐久性と無数の色片が織り成す表現の魅力、永遠な恒久性などが考えられフレスコ画より重視さ
れた。

 B

A:エリコの陥落 ローマ 5世紀 旧約聖書を題材にしたキリストの伝記物語。
B:一使徒 ラベンナ ネオニアーノ洗礼堂 クーポラ内部、キリストの洗礼の周りに描かれた12使徒の部分。
東方の影響を受けつつ、古代ローマの写実的な伝統も見えてくる。これらの壁画はたんなる装飾的要素に留
まらず、文字を読めない信者に対して、聖書の伝記に基づいた絵解き物語としての役割を担っている。大きな
講堂で司祭が説教を説く時間は、せいぜい体力的に2〜3時間にとどまるという。絵解き物語は教会の権威(
神の家としての)の誇示など実用的なことも含めて、大きな教会ほど欠かせないものになっている。これからは
教会組織が芸術の最大のパトロンとなる。
私は信仰の気分とかは判らない(子供の頃、美術全集に載っていたキリストの磔刑図を見て、なぜ死者を飾
るのか嫌悪感を感じた事があったが、まだ抜けないようだ)が、前章の“豊な人間生活を飾る絵画が無くなって
いく・・・”と言う言葉は訂正しよう。物は見方により変わるので、これは“信仰の世界が人間生活を飾る”ように
なったと言い換えよう。ただ一神教は人間生活の諸悪の根源だと思っている。宗教と社会システムについては
、言説も多いのでこれ以上触れるのは止めよう。ただ後世の私のとっては、ポンペイの壁画に見られる自由奔
放な姿が、なんともほほえましい生活態度のように見える。これも人間の一断面だけなのかもしれない。そして
これから暗黒の?中世が始まる。


第10章 初期のキリスト教美術
ローマがキリスト教を国教に定める以前から、シリアなどの東方地域では寺院や礼拝堂などの建設は、地
元の有力者達によって相当に進められていた。323年コンスタンティヌス大帝はローマ帝国の首都をビザ
ンティウム(コンスタンチノ−ブル)に移転した。その後帝国の分裂(395年)を経て(476年西ローマ帝国滅
亡)、6世紀の始め頃に東ローマ帝国の首都を中心に、成立した一つの美術様式をビザンティン美術と言
います。この時代の歴史は世界的な民族大移動も含め、きわめて複雑な動きを見せているので一概に論
ずるのは難しい問題です。その中で比較的政権の安定した東ローマ帝国を中心に、キリスト教美術が発
展し成熟して、近隣諸国に影響を与えてきたものと考えられます。ビザンティン美術と言うと、現イスタンブ
ールの遺構が有名ですが、ここでは東ローマ帝国の総督府であったラベンナのサンタポリナーレ・イン・ク
.ラッセ聖堂を取り上げます。

 B

国家宗教となって、教会は信徒に対する集会・説教の場であるとともに、神の家としての威厳と荘厳の風格
を備わったものに仕上げていく努力がなされた。最も美しいとされるモザイク画は、ローマ時代の床に敷く
では神のテーマにふさわしくなく、礼拝の為に高所に配置して仰ぎ見る必要があった。多くのモザイク画は
、建築のプランと構造に依存して、絵の構図を適合させている。正面奥のアプスの天井半ドームの所(アプ
ス:後陣)には、最も聖なる重要なテーマであるキリストとかマリアが配され、左右に受護神などが描かれ
る。A,B:サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂の断面と外観の模式図です。549年東ゴート王国の女王
アマラスンタの命により完成された。3廊式のバジリカで正面アプスのガラスモザイクは、ビザンティン美術
の傑作です。


第11章 教会建築の発展

A 

A,B:329年に完成された旧サン・ピエトロ大寺、聖ペテロの埋葬地に建てられたと言われているが、確実
な資料は無い。16世紀に現在のイタリア・バロック様式に変えられた。アトリウム(前庭)を抜けると、ナルテ
ックス(入口の間)がある。本堂は木造の切妻屋根をいただき、中央の身廊が一段高くなりそこから外光を
取り入れる構造になっている。一列22本の列柱によって構成された5廊式の典型的なバジリカ寺院。
全体が119m、身廊長さ90m、巾64mのヨーロッパ最大の教会であった。

 B

A:933年に再建されその後増築されたヴェネツアのサン・マルコ寺院の外観、平面はバジリカ式とは異な
り正十字を成した、後期ビザンチン様式に入る。B:中央及び4方に低いドームを架し、1350年その上に円
弧のきついドームを乗せて外観を覆っている。内部を飾る金色のモザイク、色モザイクは圧巻である。
ビザンチン様式は東ローマ帝国で生まれ、西のカソリックと別れギリシャ正教として継承されていった。特
長ともいえる丸屋根のドームは、イスラム文化の影響だろう。中世でも西よりも東の方が経済力も強く、文
化も進んでいた。この様式はバルカン半島からウクライナを経てロシア正教に継承されていった。モスクワ
、クレムリンでも見られる“ねぎ坊主”(正式呼称である)型のドームも、もともとはビザンチンからギリシャ
を経て、変形していったと見られる。


第12章 ロマネスク様式の建築
民族大移動(蛮族の侵入)が収まった頃西ヨーロッパの秩序が回復して、10,11世紀頃から各地で文化活動
が再び活発になった。その共通の試みは、神の永遠的な寺院として不変(レンガ積から)不燃(木材の使用
から)の物に作り変える事であった。平面はバジリカ形式を踏襲しつつ、全体の構造を不燃堅固の石造にす
る。開口部は半円アーチ、重い石の天井はそれを交差させたボールト構造で覆い、壁を厚くして支える事で
技術的に解決した。最初は低い側廊部分から、次に高くて広大な空間を覆う身廊部分へと技術的な問題を
解決していった。これらをローマ風の様式、ロマネスクと言うが統一した様式ではなく、ドイツ、北フランス、
イギリスは前のカロリング朝文化の影響を受け、イタリア、南フランス、スペインは東方のビザンチンやイスラ
ムの影響を受けるなど、各国各地で地方独特の表現豊な様式を生んでいる。

 B

A,B:トゥールニュのサン・フィリベール大修道院。



組積造の壁に開口部を付ける工法は、昔からさまざま工夫されてきた。まぐさ工法は古代エジプト、ギリシャ
など広く知られている工法で、開口部の上部に1本の石材(又は丈夫な木材)を渡して開口を取る。石造ア
ーチは、上部を小さく刻んだ石片を半円弧状にせり出して、中央上部のキーストーンで閉じる。この工法を
地上で大きく発展させたのは、古代ローマの水道橋やコロッセオに見られる。ボールト工法は、アーチに奥
行きを持たせたものです。ボールトを直角の交差させたのが交差ボールトになる。いずれも写真Bも参照の
こと。


第13章 イスラムの建築
 初期のモスクはイスラム教徒の集会場にすぎなかった。イスラムの最古のモスクは、684年着工のエルサ
レムの岩のドームである。プランは一般的に中庭を囲んで屋根付きの回廊を廻わし、モスク(礼拝堂)の内
部には聖地メッカに向かって祈りをささげるミフラブ(と呼ぶ壁に窪みを付けた祭壇?)を設け、隣に礼拝を先
達する導師が座る階段状の説教壇がおかれる。外観はイスラム特有のドームを載せて中心感を強調し、信
者に呼びかけるミナレットという塔を外部に配置している。モスクの特徴は、キリスト教の教会や、日本の神
社のようにそこに“神”を祭っていない(後述する)。単に礼拝する場所に過ぎないから、華麗な装飾は見当
たらないが静かで落ち着いた場所になっている。中庭には流水設備を伴う“清めの泉“を設け、深い回廊は
信者に日陰と安らぎを与えてくれる。

 B

 A:エルサレム、岩のドーム。B:カイロ、アムル・イブン・アル・アズ・モスク。642年に建設されたエジプト最
最古のモスク。
 ゴシックが森の建築なら、モスクは砂漠の建築と言えよう。イスラムの勢力は西はスペイン、モロッコから
、東はインドまで、100年という短期間で広がった。古代文明発祥のエジプト、バビロニア、後にはインダス
地方などを含み、数学、哲学、天文学など高度な文化的背景を継承している。独特の造形様式をもたなか
ったアラブ人たちは、その地方の進んだ文化を取り入れた。北アフリカはシリアの石造建築を、中近東では
アッシリアのレンガ技術を、トルコではビザンチン様式を、インドではヒンズー寺院の特徴を取り入れそれぞ
れが折衷されて発展してきた。共通した特長は、偶像崇拝を嫌うイスラム教の教義に従って、装飾は総て
幾何学模様で作られている。アラビア文字は神の啓示を伝える文字として神聖化され、装飾文字として美
化されて、モザイクタイルや透かし彫刻などで建築を装飾している。一般にはこのような形式を持っている
が、寺院形式や構造は多種多様、その土地の伝統文化に従っていて、これがイスラム建築だと言うこだわ
りは無い。なかにはキリスト教会をそのまま使っている例もある。


第14章 ゴシック様式の建築
 まずフランスの北部イルド・フランス地方とこれに隣接する地方から生まれ、ドイツ、イギリスに広まってい
った。当時のフランスは、イタリア、ドイツと違って王権の確立に早く成功して繁栄していた。12世紀中期頃
にはパリ大学が設立され、多くの神学者や建築家、彫刻家、ガラス絵師、金刻師などが集まって文化の中
心になっていた。ここで王国の力の権威を示し、町の象徴、神の国に恥じない繊細で開放感のある新しい
大聖堂を建設しようとする動きが生まれた。その共通の試みは、王国の保護者である神に崇敬の念を呼び
覚ますことであり。神意にかなうには、光の持つ神秘性を生かすことであると考えた点である。その様式の
特徴が最も容易に認められるのは建築である。12世紀後半から約300年間続く、後世(18世紀)で言うゴシ
ック(ゴート人のごとく野蛮な)様式の誕生だ。
 フランスは今でこそ、緩やかな丘と田畑に恵まれた明るい田園風景を見せるが、中世はまだ都市の周辺
でも深い森が迫る暗い空間を残していた。教会は、街並みよりも高く、森林の梢を突き抜ける高さを求めた
。それを可能にしたのが柱を高く支えるフライングバットレス(飛梁)とリブ・ヴォールト工法です。

 B

 細身の柱、尖頭アーチ、膨大なステンドガラスの窓、が、上昇感のある造形を生みだし、内部は木立に囲
まれた森の小道に、日差しがこぼれこむ雰囲気をだしている。光そのものは物質を持たないが、ガラスや
宝飾を通して知る事が出来る。光を多く取り入れる建築、ステンドグラスを通した光を受けて得られる神の
啓示、天高く神にも届くかもしれない尖塔、彫刻で飾られた外観、初期キリスト教建築800年の絶え間ない
発展の末たどり着いたともいえる究極の姿だとも言える。


第15章 ゴシックの美術

 B

  A:リブ・ヴォールトの模式図  B:パリ、ノートルダム大聖堂の彫刻飾り
 この時期にヨーロッパ全土で森林を切り開き田畑を増やす、農業活動が活発に行われた。修道院が布教
と開発と学問を率先して行なう一方、教会と世襲化された貴族の結びつきも強く、ペストの流行や飢餓、戦
争があっても安定した時代を迎えました。中世後期にはおのずと農業の生産性も高まり、商業活動も芽生
え、北ヨーロッパも含めて都市が発生してきた。この400年の間人口が倍になったという報告もあります。建
築の華々しい変化に比べ、絵画は目だった動きをしない。ロマネスクやビザンチン美術の影響から脱して、
遠近感や写実的な傾向を深めながらゆっくりと進んでゆく。華々しく開花したのはステンドグラスであろう。

 

 A:パリのサント・シャぺル寺院(1248年)の2階である。光が差し込むと、色ガラスを通して光線が乱舞
する。まるでカレイドスコープ(万華鏡)の中に入った様で光に酔う、神の啓示もこんなものなのかもしれな
い。・・・・・もうこれ以上の説明は要らないであろう。


第16章 ルネサンス前夜
 イタリア・ルネサンスの時期は14世紀中から1600年ごろまでを指す。
 ルネサンスという言葉は、re=再び と renaissance=誕生 を意味するフランス語から来ている。ラテン
語ではrenasci=生まれ変わる、イタリア語でrinascitaです。西ヨーロッパはほぼ100年もの間キリスト教支
配の下に、古代ギリシャ・ローマ文化の破壊が行われてきた。信仰が生活の中心であり、社会システムの
中心にキリスト教がある。1346年頃、西ヨーロッパに伝播したペスト菌は、その後50年ほど大流行して人
口の1/3が亡くなった。東ローマ帝国はすでにイスラムの攻撃を受け、13世紀半ばには衰退の一途をたど
り、1453年オスマントルコに占領された。これらの社会不安から社会活動が停滞して、占星術や魔術など
が信仰と結びつき、はなはだ非合理的・非科学的な思考が支配的であった。
 ヨーロッパでもイタリアのトスカーナ地方の諸都市は東ローマ帝国とつながりが深く、コンスタンチンノー
ブルの陥落が近づくにつれ亡命の知識人も多く、古代ギリシャ・ローマの書籍や知識、イスラムの科学が
流入して古典文化の研究が盛んになった。これらの影響を受け絵画も大いに発展する。
 ゴチック後期の代表と言われているのがジヨット Giotto(1266?〜1336年)です。今まで輪郭を描く事で
物を表現していたのが、陰を付けて物のボリューム感を表現しました。この陰の付け方は紀元前1世紀の
ポンペイの遺跡からも見る事が出来るのですが、その後継承されなかったようです。ジヨットの優れている
点は、視点を生み出して絵のテーマを強調した事です。取り囲む人々の視線が横たえたキリストに注ぎ、
背景の建物にも陰を付けて立体感を生み、画面に構図を与えて強く遠近感を出しています。この効果で登
場人物が生き生きと描き出され今でも感動を誘うのです。聖フランチェスコ大聖堂(1299年頃)。




第17章 イタリア・ルネサンス(T)
 フィリッポ・ブルネレスキ(1337-1446)
ルネサンスは いつ、どこで、誰から、と 疑問の沸く所で諸説あるが、まずフィレンツェ生まれのダンテ(12
65-1321)の“神曲”の発表からであろう。イタリア半島は地中海に張り出して、古くからアフリカやアジアの
海の交易路に当たっている。この時期に羅針盤が発明された。工業も盛んで、商業、金融業も活発になっ
ていた。古代ローマの遺跡も多く残されており、彫刻、建築などこれらから直接に学ぶ教材に事欠かない
など、いろんな条件が揃っている。ローマの古代建築を研究した、その一人が建築家ブルネレスキである

 B

  A:フィレンツェとドーモのクーポラ。B:パッツイ家の礼拝堂(1429年着工)
 ブルネレスキの名が知られるようになったのは、フィレンツェ礼拝堂の北門扉のコンペに当選してからで
ある。1418年長らく中断していたフィレンツェ大聖堂のクーポラ(イタリアの教会堂をドーモdoumo、ドームを
クーポラcopolanoと呼ぶ)のコンペが行われ、ブルネレスキ案が当選、直径42〜45Mの大ドームが彼のも
とに指揮総監督されて15年後に完成した。石造ドームとしては今も世界最大。

 

 C:断面は、左右の円弧の中心をずらした尖頭アーチ。D:ドームは2重殻構造、間に補助材を格子状に
めぐらして軽量化を計った。E:ドームの構造図。
ブルネレスキの名声を高めたクーポラは、ゴチックのリヴ・ヴォールト工法の応用と古代ローマ様式を生か
した新しい構成美を生み出している。8角形の平面を持ち、角から中心にヴォールトを交差させている構造
をとり、リブが8本の筋として強く打ち出されている。外観は近めではダイナミックな上昇感を与え、遠目に
は赤いレンガの屋根を白い大理石のリブが区切って軽快さを生んでいる。


第18章 イタリア・ルネサンス(U)
 レオン・バチスタ・アルベルティ(1377-1446)
前述のブルネレスキは透視図法の原理を究明したとしても有名である。共同で幾何学的な裏づけで証明
したのがアルベルティです。今迄は奥行きが測れなかったのが、図法に窓(画面)の位置を設定した事に
よって解決した。

 

 最初にアルベルティの想定では、自分の目の高さに奥行きの線の消失点があると考えた。その断面がA
図の左側である。右図はそれを正面から見た図。箱と自分との間に窓を設定して、視点から発する光線AB
-abと画面との交点を水平に引いた線が、正面図で示すa-bの奥行きの水平な横線となる。



 B:はA:を立体化して見せたもので、全体の位置関係は図右に見られる。赤い輪郭の線が、画面上で描
かれた箱の透視図である。アルベルティは自ら建築を作るだけでなく大変な理論家で、1435年には“絵画
論”を、1452年には“建築書”を書いている。ほとんどローマに暮らしていて、古代遺跡に関して熱心な研究
者であった。彼の建築は、比例を重んじローマ風の意匠をまとわりつつ、新しいルネサンス形式を生み出そ
うとしていた。

 B

A:サンタ・マリア・ノヴェッラのファサード(1456-70)。B:マントヴァ、サンタンドーレア聖堂(1472-94)。


第19章 イタリア・ルネサンス(V)
 アンドレア・マンテーニャ(1431-1506)
 今迄の画家は職人組合に属し、職能技術者としてしか社会的評価を受けていなかった。この時代から依
頼者の意を越えて、ブルネレスキのフィレンツェのク−ポラの成功のように、新しい技術、新しい意識を提供
するようになった。職人から芸術家へ、空間を創造する天才の誕生だ。天才という言葉もこの時代に生まれ
た。画家が数学者や哲学者、歴史学者と同様な社会的名誉を受けるようになった。前述のブルネレスキ、
アルベルティ、今回取上げるマンテーニャを始め、パオロ・ウチエロ、フィリッポ・リッピ、マサッチオ、ピエロ・
デラ・フランチェスカなど、名前を上げるだけで1冊の本を埋めつくすほどの、現在でも魅力溢れる芸術家、天
才が誕生している。この背景には、流通経済の発展から金融業、封建領主、バチカン(最大の貸金業者)
に代表される教会組織が新しい理念を求めて、これら芸術家に制作を依頼したものです。今までの自給自
足経済から貨幣経済へ、農村から都市文化の移行による、社会構造の意識変革が起きたのだろう。

 B

 A:に見られるように、背景はローマの廃墟から断片を拾い出し、透視図法を使って屋敷の中庭を描いて
いる。古代の様式に忠実に描くことで、ゴチックを越える詩的な構図を与えている。1457年、エレミターニ
聖堂。1944年米軍の誤爆により破壊。ヘルモゲネスを洗礼する聖ヤコブ。B:1500年頃、死せるキリスト。
透視図というより幾何学を応用した縮尺法(逆遠近法か?)で描かれている。実際より、足は小さく、遠方
の顔は大きく描いている。写実的でリアルに見える?
 マンテーニヤはルネサンス時代でも恵まれた生活を送っている。仕事ごとに世間を渡り歩くのではなく、
マントバのゴンザーラ家の宮廷画家に納まって、自分の屋敷まで持っている。良いパトロンを得て、神の
ための絵から自分の関心の高い遠近法の美、を描くようになっていった。後は画集を見てください。


第20章 イタリア・ルネサンス(W)
 レオナルド・ダ・ビンチ(1452-1519)
ルネサンスの芸術の第一人者、天才、万能な科学者でもある。のに、なぜ前章のマンテーニャに比べて、な
んて売り込みの下手なダ・ビンチなのだろう。人並み以上に好奇心が強く、観察や分析の才能に恵まれて
いるから、真理を追究せざるを得ないのだろが。“画家は宇宙の秘密を解き明かす者”ダ・ビンチの言葉であ
る。まるで哲学者気取りだ。また記録する事で真理を解き明かし、法則を見つけ出してそれを支配したい、と
思っていたのであろう。それにしても封建領主や教会などの支配者と親しくなれない、世渡り下手なのだろ
う。私としては、じっくり絵を描かせてやりたい、望むように建築を建てさせてやりたいと、伝記を読むたびに
思う自分が、貧しい貧弱な精神の持ち主である事を思い知らされる。たぶんダ・ビンチは絵の完成の前に真
理を見てしまったのであろう。正直な人である。
La joconde(モナリザ)は、夜行で朝、駅に着いてすぐ安宿を探してから、駆けつけた思い出がある。当時は
まだブームになっていない時代なので、人も少なく時々一人になって見入っていた。冷たいなと思うのが第
一印象、イタリアのマンテーニヤの絵を見たすぐ後だったからか、画集で見慣れたせいか。絵を見慣れると
いうことは、とても恐ろしい事だ。脳から事前に“この絵は偉大な絵だぞ”と 事前通告を受ける。見た者は
“さすが善い絵だ”と“感心”する。知識の蓄積も必要だが、常に自分の先入観をすて、感性を漂白剤で洗っ
ておく事が肝心だ。

 B

A:キリストの洗礼(1472-1475)、部分、ヴェロッキオと共作、ウフィッツィ美術館蔵)。
B:東方三博士の礼拝(1481-1482)未完 、ウフィッツィ美術館蔵。
1452年トスカーナのヴィンチと言う小さな村で生まれ、ヴェロッキオの工房に弟子入りした。そのときの作
品がA図です。天使の髪や顔の表情が自然で、師を越していたのではないかとの評判を受ける。B:ミラ
ノに移ってから描かれたようで、全体の構図はしっかりと透視図法的(厳格な遠近法)空間によって構成
されている。人物はあいまいさよりも塑像的硬さを意図して、奇跡を見る人々の驚きの瞬間を表そうとして
いる。後の“最後の晩餐”にその完成作が見られる。


第21章 絵画に現れる遠近法
 ルネサンスは、語るに語りつくせない魅力満載なのでもう1ページ追加して見た。透視図法についてであ
る。これも毎度同じに大雑把な説明になるが・・・・。

 B

 マンテイニャの作品で、A:刑場に曳かれ行く聖ヤコブ、1457年、マントバ、エレミターニ聖堂。透視図法を
駆使して古代ローマの凱旋門を模写したかのように細部まで再現している。視点を地面下に置き、仰ぎ見
る構図を生かしている。これは図法を知らないとなかなか思いつかない構図で、虫瞰図(空から見た鳥瞰
図に対して)と造語を作っても良いくらい斬新です。聖書を題材にしているが、古代の様式を忠実に描くこと
が真意であろう姿が見える。周りの群集の視線は、(刑場に曳かれていく途中の聖ヤコブが)奇跡を起こ
そうとしている人物に集まっている。中風で歩けない患者に“さあ、立って歩きなさい”とでも言ったのであ
ろう。B:マントバ候の居間として使われていた、天井のトロンプ・ソイユ(騙し絵)である。実際には天窓は
無く、天井を高く見せるためのもの。周囲の腰壁や柱も騙し絵でタイルや大理石を描いている。一点透視
で天井の立ち上がりを描き、キューピットが室内を覘いている。この手法は後のバロックで多用される。



 最後の晩餐、1495-1498頃、ミラノ、サンタ・マリア・デル・ゲラーツィエ聖堂。420×910cmの大きな壁画
。キリストが処刑される前夜、12使徒と伴にした夕食の光景を、一つの場面として描いている。キリストの
言葉に驚いた瞬間の様子が、手の動きなどによって劇的に描かれている。写実的な描写をするために重
ね塗りが必要、そのため乾いた漆喰の壁にテンペラで描いたため、湿度の影響で損傷を受けてしまった。
数少ないダ・ビンチの完成した絵としても有名。これ以上有名すぎて話題が尽きない一作である。


第22章 油彩技術の完成
 今迄のフレスコ画の技法は、漆喰を塗りそれが乾ききるまでに絵具の顔料を載せて、壁自体に着色する
方法を取るが、色彩に制限があり、塗り重ねは出来なく、漆喰が乾くまでの8時間ほどで仕上げなければな
らない制約があった。このため全体を分割して部分的に仕上る方法を取った。油絵はこれらの欠点を満足
させる絵画技術として、多くの画家が研究してきたが(後世ダ・ビンチの最後の晩餐の失敗もある)、フラン
ドルの画家、ファン・アイク(フーベルト:兄、ヤン:弟)兄弟が油彩技法を完成させたと言われている。兄の
去フーベルトの事績は不明なところが多く、代表作“ヘントの祭壇画-Ghent Altarpiece”はフーベルトの死
に(1426)伴いヤンが引き継いで完成(1432)させたものです。裕福な商人の依頼で描き上げ、板絵に油
彩で仕上げた教会の祭壇画です。

 B 

 A-C:ヘントの祭壇画。下絵をフレスコ画で使っていたグリザイユ技法で描いた後、仕上色を着色。グリ
ザイユとはモノクロで描かれること。20章B図参照。
 油彩画の利点は、いろいろな油を混ぜる事によって、表面は滑らかで、絵具を延ばして微妙なグラデー
ションを付けたり、細部の精細な描写も時間をかけて落ち着いて描けるなど、写実的な表現が容易になっ
た。透明度の高い油絵具は、塗り重ねによる絵具の層により反射、透明の光学的効果は深みのある質
感と輝きを生み、自然の光や距離感、金属や宝石の表現、などを巧みに表現できた。

 B C

 D-F:ヘントの祭壇画。背景の景色。大気の透明感や遠景建物の描写、樹木などが細かく精密に描かれ
ている。おそらくフランドルの持っている、聖書の挿絵の写本技術を生かしているのだろう。


第23章 北方ルネサンス
フランドルとドイツのルネサンスはイタリア・ルネサンスの影響を受けつつ、ゴチック様式を色濃く残していた
。バチカンの説くキリスト教を疑って、新しいキリスト教を模索し始めていた。バチカンの司教の言葉より、ラ
テン語、ヘブライ語で書かれた古典の中から、キリストの言葉を選び聖書の解釈を改める改革である。だ
からイタリアのように“古代ローマへの復帰”に関連する現象は起きなかった。宗教改革では音楽や絵画
は奨励されたが、建築や彫刻を含んだ、総合的な運動にはならなかった。それは小さな教会の祭壇画か
ら始まった。ゴチックの金色を使った荘厳さや装飾性・抽象性を脱皮して、現実に即した庶民生活を描き出
し、写実的な精密描写や空間構成など革新的な表現が現れている。ロベルト・カンピンのメロデーの祭壇
画(1425−30頃A図)だ。板絵、油彩。



 この同じ時代に同じように、現実世界を捉えようとしている画家達がいた。ファン・エイク (1390〜1441年
)を始めとするフランドルの画家達と。イタリアからドイツに帰ってきたデューラー (1471〜1528年)達である
。北方ルネサンス絵画の特徴は、当時のゴチックの細密画の伝統を継承して、写実的で精密に描かれて
いる。透視図法や解剖学に基づいた精密描写は、当時の科学知識として尊重された。図法の原理を応用
して、どのようにして描いていたのかデューラーの銅版画(印刷が可能な)があるので載せておこう。視点
を固定して「視三角錐」の底辺に当たる薄い絹のスクリーンに映る位置を、下の別な用紙に描きこんでい
った。



 ルターの宗教改革は原始キリスト教精神に帰る一つのルネサンス(再生)ともいえるが、北方ルネサン
スも宗教改革に支えられて、ゴチック様式からの脱皮が始まった。活版印刷の普及もこれらの改革の役
に立った。


第24章 禁断の実(T)
 ルネサンスと言えばこの絵を抜かして語ることは出来ない。マサチオの“楽園追放”(1427年頃)だろう。
キリスト教はご存知のごとく、性愛や金銭を卑しいものとして嫌っている。これを諌めたテーマなのに人物
を、ゴチック的抽象性を廃し、現実に見たままの人間を実感のまま描いた。自然な感情を表したアダムとイ
ブの生々しい裸体は当時の人々を驚かせ、その革新性に多くの画家も詰めかけた。画の勉強にミケランジ
ェロも連日通ったと言う逸話も伝えられている。

 B 

 B:マサッチオの三位一体(1425頃)サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂、アルベルティに学んだと思われる、
透視図法(平面の壁に描かれている)にのっとった空間構成、輪郭をぼかしてボリュームを表現するスフ
マート描法など、これまでの画風を一新した。C:“楽園追放”があるブランカッチ礼拝堂室内。D:フィリッ
ポ・リッピ(1406-1469)、“聖母子とニ天使”(1460)、最初はゴチック的な固さがあったが、次第に人間
味溢れる画調に変わった。変わっていると言えば、リッピは私生活では大変柔軟で、23歳の親子ほども
違う修道女と駆け落ちして、修道院から出入禁止になったほど。その苦労のせいか何とも慈愛に満ちた
聖母マリアが描かれている。子フィリピーノ・リッピ(1457-1504)も画家である。

 E

 E:サンドロ・ボッティチェリ(1444?-1510)、春(ラ・プリマベーラ)、板、テンペラ(1480年頃)、リッピの弟
子。絵は、メディチ家の1階の部屋に飾られていた。この絵の解釈には諸説あり、最も難解とされている。
それよりも注目すべきは、テーマは古典から引用しているが、絵画が宗教の首かせから離れて、個人の
趣味趣向に応える時代が来た事を予測していないか。


第25章 ヴェネツィアの建築
 ヴェネツィアはヨーロッパでは一番安定した繁栄した都市国家であった。12世紀より続いたイタリアの都
市国家郡も、16世紀半ばになるとナポリを含む南イタリアやミラノはスペインに侵略されるなど、ルネサンス
を謳歌した元気な都市国家はフィレンツェとヴェネツィアとローマだけになった。その都市ローマも古代帝
国時代は人口200万人居たのが10万ほどしか住まない、半分廃墟の都市であった。商業の繁栄は、自ら
の都市を美しく飾ることでヴェネツィア人の威信を海外に誇示した。宮廷が無かったため芸術家達は国家
の援助を受けた。

 B

 A:ヴェネツィアの玄関とドカーレ宮殿。B:カナル・グランデの町並み。
ヴェネツィアは潟の浅瀬を埋め立てて造った人工の島の集合体である。街のメインストリートはカナル・グ
ランデ、大運河にあたる。パラッツオ(邸宅)は運河に面したところが船着場で、中庭に面した1階が荷解
場、倉庫、2,3階が住居に当てられていた。主に2階がホール、ラウンジ、3階が個人の居間と寝室。

 B

 C:カ・ドーロ(1428-30)、ヴェネツィアで最も古く、最も美しいパラッツオ。D:ヴィラ・ロトンダ(1566-7)、
設計はアンドレア・パラディオ(1508-1580)、ヴェネツィアから船(と馬車)で1時間の距離にあるヴィツェン
ツアの郊外の丘に建つ。パラディオは“建築四書”を著して後世大きな影響を残しただけ
でなく、貴族の美しい別荘建築(ヴィラ)の起源とされる。
 ヴェネツィアは古来、海洋貿易立国であった。アドリア海を始め、クレタ、キプロスに及ぶ広大な海の帝
国の都でもある。政治的にも安定した統治システムを取り入れたため、フィレンツェにも見られる都市内
の政治抗争も起きていないし、魔女狩裁判も皆無である。繁栄も@イスラムの侵攻とA大航海時代B北
ヨーロッパ諸国の隆盛を迎えて徐々に衰退し、ナポレオンの占領(1797)まで続く。


第26章 禁断の実(U)
 教会が芸術のパトロンだった時代では、キリストの裸は彼の受難を強調するものでしかなかった。古代
ギリシャやローマ時代からヌードは、裸体を理想化して表現しょうとしたテーマであった。男性ヌードは骨格
たくましく描く一方、それよりずっと多い女性ヌードは男を楽しませる官能的な肉体として描かれる。ルネサ
ンス=古代回帰の風潮は、個人の欲望をかなえる口実にも使われた?

 B C

 ヴィーナス=ウェヌス(Venus)はローマ神話の女神。女性の美しさを表現する際の比喩として古来より用
いられてきた。A:ミロのヴィーナス(前130年頃)、B:ポッティチェリ、ヴィーナスの誕生部分(1485年頃)、
テンペラ、キャンバス。C:ルーカス・クラナッハ(1472-1553)ヴィーナス(1532)、板絵、油絵、クラナッハは
ルターの信仰を、視覚的に具現化を試みた画家の一人でしたが、思想と芸術の融合は可能なのか?。こ
の絵は当時勃興してきた地方貴族の趣味を反映して、ゴチック的な裸体美と上品なエロチズムを醸し出し
ている。ほっそりとした眼やポーズは、意図的に曲げた手と腰のひねりなど理想化された古代の裸体とは
違っても、洗練された優雅さも表現されマニエリスムの傾向を見せている。

D E

 D:ティツィアーノ(1488?-1576)、ヴェネツィア派、ウルビーノのヴィーナス(1538)、油絵、キャンバス、
ポーズはジョルジョーネの“眠れるヴィーナス”(1510)を意識しているが、この絵は眼を開けて観る者を挑
発しているように見える。この裸体の系譜は、ゴヤの“裸のマハ”、マネの“オランピア”に引き継がれてい
くほど、根の深い問題になっていく。D:フォンテンブロー派、浴槽のガブリエール・デストレー姉妹、1530年
、フランスのフランソワ1世が、パリ近郊のフォンテンブロー宮にイタリアから多くの画家を招いた事に始ま
る。


第27章 風景画の独立
 絵画はフレスコ画から油絵へ、教会の壁(建築)から離れて、板絵、キャンバスとして独立し、公共の場(
領主・商人の館・市庁舎など)、個人の部屋に飾られていく。題材も聖書や古典を引用しつつも個人の趣
向に合わせる。これは個人の需要にも応えるもので、持ち運びできるから、絵画コレクターや画商の誕生
・絵画の投機性にも繋がる。いまだ時代はキリスト教支配が生活の隅々にまで及んでいる。それでも生き
る新しい活力は、絵画にも新展開を生んでいく。1291年、十字軍の最後の拠点であるアッコンを失う。軍
事的には十字軍遠征は失敗であったが、東西の交易は活発になり、ヨーロッパとの中継地としてイタリア
の都市国家が栄え、東側のイスラム科学なども流入した事は前にも述べた。しかも十字軍の失敗に続くビ
ザンチン帝国の弱体と1453年の滅亡は、バチカン(ローマ教皇庁)への不信に繋がった。一方、芸術のパ
トロンは教会の独占から地方の王侯貴族をはじめ、貿易商人、職人組合、市民議会、個人など多岐にわ
たる。時代は大航海時代の幕開けである。この中で宗教画や神話の背景としか描かれていなかった風景
画が、癒しの絵画として別に独立していく。A:サンタ・マリア号 100t。

 B C

 B:アルブレヒト・アルトドルファー(1480-1538)、レーゲンスブルグ近郊のドナウ風景、(1520年代)、独立し
た額に入れられ、油絵で描かれた西洋美術最初の純粋な風景画といわれている。それ以前にも背景とは
別に風景画を残した作品はある。有名なのはレオナルド・ダ・ビンチのペン素描“風景”(1473)や、デュラ
ーが新婚の新妻を残して最初のイタリア旅行の帰り(1495)で、数枚の風景画を残している。C:その後だと
思われるが、“風車“(1496-98)が水彩画で描いたもの。絵の調子は広重の版画を彷彿しているが、勿論
広重は生まれていないし、民家の立体は透視図法に則って描かれている。
 アルトドルファーで思い出すのは、彼の有名な作品“アレクサンドロス大王の戦い”(1529)を見に、足を
伸ばしてアルテ・ピナコテーク(ミュンヘン)まで行ってきた。あまりにも雄大な風景画に圧倒された事を思
い出す。絵巾は158cmとそれほど大きくはないのだが、大空と山並みの深さには、一度はこのような壮大
な絵を描きたいと思いました。(ネットで調べて下さい。)


第28章 ルネサンス様式の普及
 フランス
 フランソワ1世は1530年フォンテンブローの宮殿を新しい美術の中心にしょうと努力を重ね、ミケランジェロ
、ティツィアーノ、ダ・ビンチなどイタリアの優れた芸術家を宮廷に招いた。一方フランスの若い建築家をロ
ーマなどイタリア各地に派遣して自国の芸術向上を奨励した。こうしたイタリアに学ぶ傾向は19世紀までヨ
ーロッパ各国で見られた。この頃、前記のフォンテンブロー、シュノンソー、シャンボールなどの城館がロワ
ール渓谷に続けて建てられている。

 B

 A:アゼ・ル・リドーの城館(1519-27)、作者不明、全体にイタリア・ルネサンス様式であるが、スレート(
粘板岩)の傾斜した高い屋根はフランス風である。
 ネーデルランド B:アントウェルペン(アントワープ)市庁舎(1561-65)、ライン川沿いの南ドイツとの通
商を通じて繁栄していた。
 ドイツ C:アウクスブルク市庁舎(1615-20)、市の起源は紀元前15年のローマ皇帝アウグストゥスの軍
団基地による。中世はハプスブルグ家の保護により自由都市となり、自治権を獲得、町の全盛期の17世紀
前半にドイツ・ルネサンスの建物として有名。先の大戦で破壊されたが、当時の建物を忠実に再建した。

C D

 イギリス D:クイーズ・ハウス(1616)、ジェームス1世の王妃のために建設された。設計はイニゴ・ジョン
ズ、イギリス初のルネサンス様式でパラディオのヴィラ形式を取り入れている。イギリスの教会は16世紀
を通して垂直の装飾を強調する、後期ゴチックの独特の様式を生み出している。ルネサンス様式はそれ
ほどイギリス人に好まれなかったようだ。


第29章 バロックとは
 次にバロックについて記そうと思って数冊の本を、覘いて見た。これは大変なことだ、自分はバロックに
ついてほとんど知らないことに気がついた。この1ページは、気が重いが専門家ではない強み?を生かし
て恥をさらしてみるか。
 バロックとして思いつく言葉は、豪華、威圧、権威、過剰な装飾、意図的ないやらしさ、などこちらから引
き込まれるより、押し付けがましい気分になる。そう言えば自分にとってバロック的な生活と無縁であった
60余年だったな、と変に感心する始末。音楽ではバッハ、絵画ではルーベンスを思いつくが、ここからは
押し付けがましさは感じられないが、(個人差はあるが)安らぎや親しさもあまり感じない。これにキリスト
の生死感が絡むと、まったくのお手上げだ。
 身近な日本で言うと、豪華ではあるが金閣寺ではない、現存すれば信長の安土城か、秀吉の聚楽第に
あたる。日光の東照宮もこの範疇だ。絵画で言えば狩野永徳や尾形光琳、俵屋宗達か、それにしても西
洋のバロックとは基本的に違う。どれも装飾的ではあるが、日本のバロックには死の影が見えない。闊達
である。

 B

 A:安土城天守閣(1576-82)、中央吹き抜け、天下統一のシンボルとした。
 狭義に豪華、極彩色をバロックというのであれば、創建当初の法隆寺もこれにあたる。柱は朱塗り、壁は
外観では白壁だが内部は着色が施されている。回廊では、梁、垂木、天井などにも華やかな模様が描か
れていた跡が残っている。従来より、日本の建物は装飾も無く白木で、古くなると“わび“”さび“の文化で
趣が深いと言われてきたが、もしかすると、着色のメンテナンス費用が無く、やむなく放置してきた結果で
はないのか。また テーマから外れてしまったが、ヨーロッパのバロックと日本のバロックは本質的に異な
るもので、無理して同一視しないで、バロック風として類似な範疇に入れた方が混乱しないだろう。
 B:俵屋宗達、風神雷神図(1624年頃)、まるっきり陽気で、ユーモアのある、おめでたい絵だといつも思
っている。生の表現と言うのはこのように”間“がある事かな。ヨーロッパは”死“の文化で、日本は”生“の
文化だと、昔、誰かが言っていなかったか。日本にも”闇”の文化があるはずだ(死は闇でない?)。そう結
論を急ぐ事はない。結論を出すと人は思考を停止する癖を持つ。曖昧なまま思考を重ねる事こそ新しい発
見も生まれ、命の洗濯に繋がると思う。ただ人は早く結論を出して安心・安住したいのも人の性(さが)で有
りそう。


第30章 バロックの兆し
 コペルニクスの地動説を擁護した、ジョルダーノ・ブルーノが異端者として、火あぶりの刑(1600年2月ロ
ーマ)に処せられた。この時を持ってルネサンス精神は終わったというが、歴史はそんな区切りの良いも
のではない。
 バロックの呼称は“バロック”の終わった後に付けられた。フランス語の“不整形な”“グロテスクな”の意
味があり、18世紀半ば以降の“新古典主義”が流行りだした頃、時代区分をつけるための建築様式につ
いて言われ始めた。その芸術様式は、ルネサンスの均整と調和を求めた平面空間を否定して、激情に基
づく力強い躍動感溢れる立体空間を表している。その兆しはミケランジェロ(1457-1564)が準備したとも言
われている。彼は気が短く反抗的な性格を持ちながら、メジチ家のサロンから著名の人文主義者(古典の
文献から、神や人間についての考察をした知識人)と交わり、絵画、彫刻、建築に、多彩な才能を発揮し
た。システナ礼拝堂の天井画や壁画(最後の審判1534-41)も助手を使わず一人で仕上げたという、バイ
タリティは絵にも表れている。この脂っこさがいつでも私は好きになれない、これも人間賛美の一形態な
のだろうが。ミラノで見た彫刻のピエタ像で、やっとミケランジェロを受け入れられた記憶がある。
 バロック絵画の特徴は、左右対称などの平面的な調和ではなく、バランスに欠いた力強い運動、瞬間的
・不規則な動作を表現し、劇的な構図を好んでいる。この傾向から物の固有色の美よりも、明暗の諧調を
強調して絵のテーマを浮かび上がらせる方法を優先したため、全体にモノトーンの傾向が強い。

 B

 イタリア・バロックの代表者がカラヴァッジョ(1569-1609)である。A:聖マタイの殉教、部分(1600年頃)。
B:執筆する聖ヒエロニムス(1606年頃)。彼はバロック的というか、性格激情で常に闘争して傷害事件と
収監を繰り返し、挙句の果てに決闘事件で各地を逃亡する人生を送った。当時でも、強烈過ぎた表現は
品位にかけるとか、聖母マリアのモデルに有名な娼婦を使って物議を呼んでいたが、教皇のお気に入りの
画家でもあった。現在のイタリアでも、モーツアルトと同じように尊敬の念を持って受け入れられている。油
絵の技術しか習得していなかったが(当時はまだフレスコ画の需要が多かった)、かえって彼の特徴を生
かした技法を生み出した。従来のグリザイユ技法(22章参照)で描いた上に、仕上げの着色をする方法で
はなく、仕上色から強い諧調のまま塗り上げた。徹底した写実性と劇的なライティング(キリスト教では光
は神の啓示を表す-14章参照)、オペラの1場面を想起させる臨場感など、油絵の特性を生かして描いたと
思われる。ちなみにオペラは1607年にマントバで初演された“オルフェオ”である。


第31章 ローマ・バロックの開花
 17世紀、地理上の発見に続く北方ヨーロッパの繁栄は、イタリア経済の凋落へと導いた。今迄一つであっ
たカソリックのヨーロッパは、宗教改革によって分裂し、絶対王権を確立したフランス、スペイン、神聖ロー
マ帝国のドイツは、次々とイタリアの領土を侵食してきた。教皇はカソリックの権威を取り戻すべき努力を進
めてきた。改革の努力が眼に見える形で現れたのが、シクトゥス5世(1585-90)の威信を回復する表現手
段として、視覚に訴える豪華な様式でローマを永遠の宗教都市、キリスト教の聖地として再建する構想であ
った。このようにしてバロックは、ローマの都市再生から始まって、外観は建築、彫刻を統合した総合芸術
として開花した。町並みはダイナミックに一新して、教会は非常に装飾的になり、眼に見える変化は直感的
で解り易く、一般の信徒も受け入れた。

            B 

 サン・ピエトロ大聖堂の大クーポラが完成したのが1590年、ミケランジェロの計画(完全な半球)より高く
仕上げている。これは円形の安定したドームより、上昇感を生む楕円形(運動的)を好むバロックの芸術意
志が現れている。正面のファサードは、カルロ・マデルノの設計により1612年完成した。B:内陣の大天蓋
(1624-33)と楕円形の広場を囲む列柱廊下(1667)はジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(1598-1680)のデザ
インである。設計を依頼された当時は、不整形の広場がサン・ピエトロ大聖堂の前にあるだけだったが、楕
円と台形を組み合わせた広場を設けた。大聖堂を背に広場に集まる信者を迎えるため、キリストが両腕を
差し出して抱えるように見せるコロネード(列柱)を備えた。

  D  E

 C:大天蓋、D:イル・ジェス教会(1584)、E:天井画(1674-79)フレスコ画。どこまでが絵画でどこまでが彫
刻、建築なのかわからないほど、視覚的に一体化している。イエズス会のイル・ジェス教会はバロックの先駆
けを示すものであった。


第32章 バロック建築の姿
 バロック建築の豪華な装飾や劇的な効果を狙った礼拝式は前述したように、反宗教活動と密接に結び
ついている。バロックの特徴として、室内空間は、建築、絵画と彫刻が一体となって、宗教的な境地を体
験させる装置として演出されている。ルネサンス美術のように、一部の高い教養のある人にしか理解でき
ない理性的空間よりも、直接に神の感情を示すバロック美術を、多くの人が喜んで応え受け入れた。まさ
に2Dの宗教画の物語から、自分が出演する3Dの舞台に包まれたような、気分の高揚が得られる。この
運動はカソリックの復権に貢献して、各地の司教にも支持されヨーロッパ各地に広がった。この直接的な
訴えは、暴力的な魔女裁判や野蛮な公開処刑を止めさせる切欠にもなった。特にスペインでは独特なバ
ロック様式(チュリゲラ様式)を生み、過度な装飾によって動的な空間を好む傾向が強いく、シチリア、南イ
タリア、マルタなどの地方にも根強く定着していった。ラテン・アメリカでは土着の文化と結びつき、ウルトラ
・バロックとして今日でも根付いている。ここではヨーロッパの教会建築について触れておこう。

 B 

 ベルニーニは彫刻、建築、絵画でローマを飾ったバロックの巨匠である。四大河の泉(1648-51)、バル
カッチャの噴水、バルベリーニ宮(1628-38)等がある。A:聖テレジアの法悦(1645-52)。B、C:サンタン
ドレア・アル・クイリナーレ聖堂(1658-61)、小さくシンプルな教会堂であるが、ベルニーニの最高傑作。

 B C

 D:シチリアのサン・ジョルジオ教会。18世紀に再建されたものだが、ローマのバロック建築の伝統をよく
伝えている。E:ドイツ、ウルムの南にあるオットーボイレンの町の修道院教会の外観(1748完成)。ドイツ
バロックを代表する有名な建築。F:ドレスデン聖母教会(1726-43)、ルター派の教会、珍しく内外とも華麗
なバロック様式である。1945年の米英の爆撃を受けるが2006年再建された。


第33章 バロックの宮殿
 フランスのバロック建築として最も有名なのがベルサイユ宮殿です。付属建築物を含めると長さ900Mに
も及ぶ広大で豪華な建物と庭園は、王侯貴族の憧れの的になり、世界中の宮殿建築の手本になった。16
61年よりルイ14世が増築、その後増改築を繰り返し今日の姿になった。“われは国家なり”と豪語したとお
りの絶対主義王政を象徴する建物として。バロック建築の豪華で荘重な雰囲気は絶対王権を戴くスペイン
、オーストリア、プロイセン、ロシア帝国の王族、貴族に好まれ、国家権威を表す様式として取り入れられた
。ウイーンのベルヴェデーレ宮殿(1720-24)、ドレスデンのツヴィンガー宮(1718-28)、マフラ国立宮殿(1
717-30)、サンクト・ペテルグブルグのストロガノフ宮殿(1750-1754)などが在る。

 B

 A:ベルサイユ宮殿の一部。B:鏡の間。賓客や儀式など政治的な行事を行う。               

 B

 C:ヴュルツブルクのレジデンツ、司教館(18世紀)、D:付属礼拝堂の内部、色大理石をふんだんに使い
、ねじり柱や彫刻、曲がりくねった2階のバルコニーも配した豪華な室内は、王侯貴族にも負けない実力
を誇示している。
 グロテスクなまでに装飾過剰で大げさな建築に対する蔑称として、生まれたバロック(Barocco-歪んだ
真珠)の呼称も、19世紀になると国家建築の一つの様式(ネオ・バロック)として再び復興していくが、単
なる装飾過剰の権威主義としてしか捉えられないのは、何か寂しい気がする。これも近代建築運動の隆
盛によって終息していく。建築は近代の機能主義だけで、果たして職務をまっとう出来るのだろうか、それ
だけで良いのだろうか。着飾った建築も欲しい・・・・・。
 日本でもネオ・バロックは見られる。主なもので、迎賓館赤坂離宮、日本銀行本店、京都国立博物館、
旧横浜生金銀行本店本館などである。


第34章 イギリスのバロック建築
 イギリスはローマ時代以降も、ブリトン人、アイルランド人、ケルト人、ゲルマン人、アングロサクソン人な
ど多くの人種が入り乱れ長い間国内が安定しなかった。14世紀に入るとフランスとの王位継承戦争、いわ
ゆる100年戦争に入ったが敗戦、ばら戦争など内乱が続いた。1588年、ドーバー海峡でスペインの無敵艦
隊を破り、1606年にイングランドとスコットランドが連合王国を作り、国内は次第に安定してきた。このよう
にイギリスでは王権が弱く地方の貴族が比較的強かった。フランスやスペインでは絶対王権を背景に、大
貴族は城館を建てたが、イギリスでは地方の農村に大邸宅(カントリー・ハウス)を建て、自らの荘園にお
ける農業経営を行った。カントリー・ハウスは現在でも2.000棟弱残っていて、イギリス建築の特徴となって
いる。建築様式は15世紀中葉からチューダー様式、17世紀からジャコビアン様式と移り変わるが、地方色
が濃く、また大陸からの影響も受けてまとまりのない状態が続いていた。他方教会建築はゴチック様式を
好んでいるが、全体のスカイラインは水平で箱のイメージが強い。これはイーリー大聖堂(1083−1351)リ
ンカーン大聖堂(1072-1311-1549)でも見られる。後期ルネサンスのパラディオ様式(23章参照)の建物
も一部建設された。
 最もバロックの様式を表しているのは、ウインストン・チャーチルの生家であり、オックスフォード近郊にあ
るブレナム宮殿(Blenheim Palace)であろう。

 B 

 A、B:ブレナム宮殿外観(1705-22)、広大な敷地を持ち、邸内には森や湖、丘などの自然を取り入れた
庭園は有名である。C: セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ(1721-26)、基部は古典的で、ゴシック風
の尖塔で中間にバロックのデザインが入っている、私には風変わりに見えるが美しい教会である。

 B C

 D:セント・ポール大聖堂(1666-1710)、1666年のロンドン大火の後、建築家であり哲学者のクリストフ
ァー・レンの設計によって再建された。


第35章 バロックの絵画
 バロックの絵画は油絵から生まれた(30章参照)。明暗の諧調の強い表現方法は、物の固有色より空間
の構成、全体のテーマを生かす構図が優先される。ルネサンスの古典的な静、調和、均整に対して、不規
則で気まぐれな情熱、直線より曲線など、直感的な快感を求めていく、これも写実的な追及の反面の発展
形態であろう。現在ではルーベンス、アントン・ヴァン・ダイク、レンブラント、ディエゴ・ベラスケス、ニコラ・プ
ッサンなどを含めバロックの画家と言われている。この時代でも古典を題材にした宗教画や人物の肖像画
、劇的な題材を表現しやすい戦争画などが新しい手法で描かれている。一方、17世紀は市民社会が生ま
れる直前の状態で、風景画、静物画、人物画も需要が多くよく描かれていた。社会現象と芸術とを直接に
結びつけるのは、適切な解釈とは言えないが、歴史の背景を知る事によって少しでも理解が深まれば、芸
術鑑賞の手助け(?余計)にもなる。
 1648年、長く続いた独立戦争が終結して、ネーデルランド連邦共和国はスペインから完全独立を果たす
。アメリカ、ブラジル、南アフリカをはじめアジアに進出して香料貿易路を独占する。北ヨーロッパの発展を背
景に、大西洋と内陸部の窓口としてアムステルダム(以前はアントウェルペンが中心であった)はヨーロッ
パの貿易、金融の中心地になる。一足早い市民社会の萌芽である。外交官としても活躍したルーベンス(
1577-1640)は、アントウェルペンで絵の修行を積んだ上、1600年にはマントバの宮廷画家となった後、
パリ、マドリードの王宮に出入の宮廷画家となり、大量の注文を受けて、弟子達を雇い共同で制作してい
った。

 B 

 A:エル・グレコ(1590-1603)受胎告知、画布、油彩、大原美術館。ベネツィア領クレタ島生まれ、イタリ
ア各地で修行して1567年スペインに渡った。極端に伸びた人体の不安定感と筆跡を残す独特の描法(印
象派に影響を与えた)は、マリアの憂いを含む視線や表情が彼独特の魅力を出している。B:ルーベンス
(1611-14)キリストの降架、画布、油彩、アントウェルペン大聖堂。力強いが不安定な構図を使い、動的
な効果を出している。C:ルーベンス(1622-25)マリー・ド・メディシスの生涯・マリーのマルセイユ到着、
画布、油彩、ルーブル美術館。ルーベンスはベネツィア派の影響を受けたのか、画題とはあまり関連がな
いと思われる、豊満な女性の裸体を数多く描いているのも特徴である。


第36章 17世紀風景画の成立(1)
 前章で風景画について少し触れたが、ここでは私の好きな風景画について述べておこう。この時代北イ
タリアと北方ヨーロッパの交流は、戦争の混乱の時代であったにもかかわらず、ライン川を通して密接な交
渉を持っていた。風景画と言えばフランドルの画家、ピーテル・ブリューゲル(1525/30-69)を落とすわけに
はいかない。A:バベルの塔、(1563)画布、油彩、ウイーン美術史美術館、1555年頃イタリアの修業から
アントウェルペンに戻ってきたが、ルネサンス時代の数学的な遠近法や正確な陰影描法を使わずに、見
事に立体空間を表現した。描写力は常日頃の観察力の賜物なのだろう。“股の間から景色を覗いて農村
風景のスケッチをとる習慣があった”との言い伝えが残っている。天の橋立の股覗きなのか。

 B

 B:アンニバレ・カラッチ(1560-1609)、エジプトへの逃避(1604)、画布、油彩、ドーリア・パンフィーリ美術
館。カラッチはローマとボローニャで活躍したイタリア・バロックの画家で、風景画も描いた。特異な風景や
精密な描写で人を驚かせる事も無く、平凡な風景を見事に構成している。カラッチが没して数年後に、フラ
ンス東部の田舎からローマに、一生涯風景画にささげる少年がやってきた。後に出身地の名前をとって、
クロード・ロランとして知られるようになる。

C D

 C:タルスに上陸するクレオパトラ(1643)、画布、油彩、ルーブル美術館。D:デロス島のアイネイアスの
いる風景、(1672)、画布、油彩、ナショナルギャラリー。ロランの場合題名はたいした意味を持たない。風
景を描きたいために、物語に沿った人物を一部の点景として描いている。樹木も自然の一部。陽光の外
に広がる開放感と、左右に配置した船と古代建築の閉鎖感が、中央に向かって劇的な効果を生んでいる
。真正面からこれほど太陽を描いた画家は今までにいない。ロランの偉大なところは、神の意志に合わせ
て自然があるのではなく、太陽の光線によって世の中の秩序が成されると言いたいのであろう。もはや太
陽は神を意味しない。光線と海面の反射などは徹底した観察に裏付けられている反面、船や岡、樹木、
建物の陰に当たる微弱な補助光は思い切って創作している。


第37章 17世紀風景画の成立(2)
 商工業、海外貿易、金融の中心であった、この時代のネーデルランドの裕福な市民に支えられて、絵画
の黄金期を迎えた。従来の宗教画、歴史画、肖像画、静物画、風俗画、風景画など扱う画題は広い。特
に海洋国家として活躍していることから、大自然への関心も深く、空想的よりも写実的な海洋画も誕生し
ている。同時代の画家では、前述を除くと、フランス・ハルス、ヤーコブ・ファン・ロー、アルベルト・カイブ、
フィリップス・ウーウェルマン、などがいる。

 B

 A:ヤン・ボト(1630-52、)、イタリア風景(1645-52頃)、画布、油彩、アムステルダム。彼はローマに滞
在してロランと伴に絵画の修行をしていた経験を持ち、技法をネーデルランドに伝えたと言われている。
 B:ヤーコブ・ファン・ロイスダール(1638-82)、風車(1670)、画布、油彩、アムステルダム国立美術館
。オランダ風景画の巨匠。低湿地な国土を描く為か、空を大きく水平線を下げた構図が多い。さまざまな
雲の表情を捉えて、光と大気の効果を追求している姿が見える。大きな空と遠い地平線は田舎へ行くと
今日でも見られる風景だ。

C D

 C,D:ヨハネス・フェルメール(1632-75)、デルフト眺望・全体と部分(1660-61),画布、油彩、マウリッ
ツハイス美術館、ハーグ。どこかで精密に写生をしたように、自然で静かなたたずまいを漂わせている。
今でも、その当時にも存在しない架空の都市の姿である。生まれ育ったデルフトからあまり外に出なかっ
たから、その故郷を目の前にして構想を練ったであろう。雲の切れ間から注ぐ陽光は、奥の建物を照らし
て、ゆっくりと動いているようだ。何の不自然を感じない。空想だから光と影の巧妙な表現は、画家の頭
で厳密に計算された結果なのだろうか。いつまで眺めていても、見飽きない一枚である。が、どこかおか
しい??。


第38章 ロココの室内装飾と絵画
 ロココ様式は18世紀フランスの宮廷文化から生まれた。室内装飾や家具装飾における、後期バロックの
変形で区別は判然としない。優雅・繊細のロココと言われるが、貴族や裕福な市民の住宅の間でも喜ば
れて、ヨーロッパ各地に広がった。

 B

 A:ヴェルサイユ宮殿、プチ・トレアノンの音楽の部屋(1770年代)。B:オットーボイレン修道院教会、32
章に外観。室内は白や金のスタッコ模様と、白大理石の柱と天井の構造体が単純な表現のため、豪華
な装飾の中にも抑制した節度が感じられる。この室内風景はロココ様式として紹介されることも多い。

C D

 1712年、アントワーヌ・ヴァトー(1684ー1721)が“シテール島への巡礼”の下絵を王立美術院に提出し
て受け入れた。新しい様式ロココが生まれた という。
 C:ヴァトー、シテール島への巡礼(1717)、華麗で雅やかな貴族の園遊風景を描いたと言われている
ロココ調の作品。印象派のクロード・モネやルノアールに影響を与えた。37歳で早世した。D:ジャン・オ
ノレ・フラゴナール(1732-1806)、ぶらんこ(1768)、ロンドン蔵。ロココの典型的な画家であり最後を飾っ
たフランスの画家。1752年ローマ賞を取り、5年ほどイタリア各地で修行して帰国。ルーベンス、レンブラ
ントに関心を寄せ、活発な制作活動を行った。
 この時代の画家は、ウィリアム・ホガース(1697ー1764)、ジャン・シャルダン(1699ー1779)、フランソ
ワ・ブーシェ(1703ー70)、モーリス・カンタン・ドラ・トゥール(1704ー1788)、フランシスコ・デ・ゴヤ(1746-
1828)などがおり、従来の貴族趣味にこだわらず、静物画、風俗画と日常体験を素直に絵画にしていっ
た。観察に持と付いた精密な描写は、オランダ絵画の影響を受けている。
 1789年フランス大革命の中、体制の変革期にあたり、時代の好みも変わり、ロココ美術も下火になり、
様式も新しい時代を迎える。


終章 ここで終わります
ここで一旦休講いたします。          2011.07.03
*第二部 企画中

   暫定目次
第38章 17世紀の日本

第39章 18世紀 ヴェネチア
 カナレット
 グァルディ
第40章 18世紀・新古典主義
 チズウィック・ハウス(1725年着工)
 ロンドン近郊
 カソリック大聖堂(1805年着工)
 メリーランド州ポールティモア
 パリ・オペラ座(1861〜1874)
第41章 イギリス風景画
 ウイリアム・ブレーク(1794)
 ジョン・コンスタンブル
 ターナー
第42章 ロマン派絵画1.
 以下  現代まで続く。 


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